12: Dagli Appennini alle Ande

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家つむりだったわたしが、気づけば海辺に誘われ、次の家を探しながらやどかりになっていた. まだ見ぬ"ナニカ"を探して、歩くようになった、そんなお話.

 

"お休みの日は何をしているのか"というありきたりな問いに答えるとして、おそらく三年前のわたしは"家で映画を鑑賞する"だとか"書籍を読む"といった、これまたありきたりな答えを返していたと思います.

いつを境にかたつむりがやどかりになったのか、というのは当の本人でもおぼろげなのですが、新しい靴を買うと出歩きたくなるような、そんな単純なきっかけであったと思います.

 

ある五月の暑い日、電車で一時間とかからない目的地へ電車ではなく徒歩でいってしまえと、歩き始めました. 途中で渡った大きく長い橋にも、高層ビルの間に静かに流れる細道にも、人影はあらず、絶え間なく歩き続けるわたしの影だけがありました.

 

たまに対岸からやってくる人が見えると、ふと"向かい側から歩いてくる人はわたしが何十キロと離れた場所から、まさかここまで徒歩でやってきたことなんて知り得ないだろう."という考えが浮かんで消えました.

 

ただ歩いているだけなのに、その距離がとんでもなく長くなると、そこに非日常的な感覚が生まれ、そして(これはわたしの場合だけかもしれませんが)ひたすらに歩くことに頭の隅を満たすと、写真を写すことに没頭できること、そしてその行為への一種の"心地よさ"を見出したわけです.

 

長い時間と距離を費やして、非効率的な過ごし方をするなんて...と思われても仕方がありません.

でも、その一歩を踏み出したら、どこまででも歩いていけそうになるのです.

 

足を休めるのはカメラを構えるときだけ.

もしかしたらわたしは、まだ見ぬ"セツナ"という生き物を捕まえようとしているのかもしれません. それをこのカメラに捕まえるまではきっと、歩いていくのだと思います.

 

(こう綴ってみると、まるでマサラタウン生まれの彼のように思えたのはここだけのひみつです)

11: 時計うさぎとかめアリス

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ニュースから繰り返し流される台風の被害状況、死者数、今後の進路予想. それが報道され終ると、今度は芸能ニュースへかわり、さっきまで深刻そうな顔だったニュースキャスターの顔が一転して笑顔に変わる. 目まぐるしくかわる世界情勢、といえるのは現代の情報網の広さあってこそ.

 

一年、また一年と積み重なる寿命.

社会人になると"時間の使い方が上手になる"、と思っていたんです. わたしはしがない会社員ですが、大企業の社員ともなれば分刻みのスケジュール、フル回転の頭と体と時計. だから自然と時間との付き合い方が効率的になる、と. (もちろん、会社の規模がどうということでもないでしょうが...)

 

しかしながら、わたしはどうやら学生の頃より時間の使い方がへたっぴになってしまいました(時間への構えがゆったりになった、というとなんだかおばあちゃんのようですが...)

付き合っていた年上の彼との初デエト、気づけば約束の一時間も前に待ち合わせ場所の駅について途方に暮れた高校生のわたし...そんなわたしが気づけば約束のちょうどぴったりか、十分遅れの社会人へ.

 

"どうして時間の使い方がへたっぴになったのか"を自分なりに勉強してみたところ...

①身だしなみ、持ち物確認に時間をかけるようになった(TPOを考えた服装、いざというときのための所持品など)

②目的地への下調べをすると、目的地の中の目的地(○○駅の○○店)が多すぎて一日の行動スケジュールを練るときに時間がかかるようになった(行動範囲が広くなった)

③"あと五分だけ"の魔術がかかってしまった

④仕事と休みのON OFFが上手くいっているのか、いないのか...自由な時間になるとうさぎからかめに変身するようになった

 

でもへたっぴになってしまった、というと悪いイメージをもつかもしれませんが、今のわたしの時間の使い方への考えが寛容になった(余裕がないゆえの、余裕)というと、うさぎでなくてもいいかな、と.

 

電車で目的の駅を乗り過ごしたとき、アイスクリーム屋さんでどの味を食べるか悩んであとからお店に入ってきたお客さんに順番を抜かされてしまったとき、(無条件で)写真を映しているとき、"遅くなってしまった" "やってしまった、こんな時間だ"と思っても、かめになったわたしが"急ぎなさるな"といって、のんびり歩き始めるのです.

 

携帯電話を片手にいち早く世界の、友達の、片思いの相手の"今"を知らなければならない時間と情報が司る現代とは...

10: 旅がらすの泡沫ドライヴ

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2016年8月6日(土)-8月8日(月) 東京-滋賀-京都-兵庫 みじかいみじかい旅に出かけました.

 

出会いは小さな窓でした.

わたしを含めたこの四人は、誰も正確にいつ頃からお互いを知りあったか、というのはあまり覚えていないと思います.

年齢も住まいもばらばらでしたが、好きなものを語れば語りつくせず、気づいたら昔から知っていた幼馴染のような間柄になっていました.

 

まだ出会った当時学生だったわたしも社会人になり、この出会いが"円"になり家族になった四人の内の二人.

預言者でもわからなかっただろう当時の"数年後"を、今として生きているなんて想像できませんでした.

出会いの窓を飛び立った四人は旅がらすになり、しばらくの間群れをなして飛んできました.

 

少しきつめのXYZ、黄レンジャー、25点とスマートボール氷室京介、年会費10万円のプール、午前二時着のドライヴ

 

言葉を並べるだけでも、そこにはしっかり思い出がつまっています.

まだ数日前の出来事ながら遠い昔のような、昨日のことのような、むしろこれはまぼろしだったのかもしれない、なんてそう思ってしまうくらいまぶしい記憶です.

 

暦の上ではすでに立秋を過ぎ、この夏の思い出も"去年の夏"になるかと思うと、さみしくもありますが、日々ゆく毎日は泡沫のように消えてはあらわれるものなのかもしれない、とひとり写真をみて振り返っています.