19: Catch me if you can.

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去年の暮くらいからでしょうか、いや、もしかするともっと前からかもその気配を感じていたのかもしれません.

集団の中にいるときのわたしと、ひとりでいるときのわたし、同一人物でありながら"不同一人物"ではないか、と.

 

これは俗にいう二重人格だとか、猫かぶり、ということではなくて(言葉で説明するのが苦手なわたしには少し難しいのですが)、ひとりでいるときは構えずにほどよく力を抜くことができるのに、集団の中(複数人でいるとき)だとまるでポーカーをしているような"あの人の手の内はどうなんだろう"などと見えない相手の"こころの手札"を、微細な顔の表情や深読みをしてしまうようです. そしてたちの悪いのは大抵その状況に陥って深読みがひとり歩きしていった場合、ゲームの進行を阻害することになり、集団からの印象を悪くしてしまうのです. 本当にみるべきはずの自らの手札と目の前で進行していく場の雰囲気をおろそかにして、気づいたら身動きができなくなってしまうことがしばしば.

 

取り組むならばいい加減なきもちではできない.

目の前にある数多くの選択肢からどれが最善なのか.

限られた時間で限りない何かを得るには.

 

良くも悪くもわたし自身にとって、相手にとっての心地の良い妥協点をなかなか見出すことができないで、そこで相手から"どのカードを手札をだしてもいい"なんていわれようものなら、相手にとってこのゲームは"その程度のものだ"といわれたような気がして、ゲームにも相手のきもちにも焦点が合わせられなくなっていくのです.

 

周りとのみえない壁があって、その線引きをしているのは相手ではなくきっとわたし自身なのでしょう. でもそれをなかなか打ち壊せないわたしは、また一歩二歩とその壁から後ろへ後ろへと歩いていき、逃げた背中が行きつくのは"またやってしまった"という後悔と自責の壁というわけです...

 

"とらえられない"と思っているのは相手との距離感や空気ではなく、わたし自身の在り方なのかもしれません.

小瓶に"とらえられた"月ははたして、夜が明けてもそこに在るのでしょうか.

 

18: み・む・ふ・ひ

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未完成のまま書くのをやめてしまったラヴレターたち.

無関心なふりをしているけれど、こころの片隅で気づかれないようハアトに火をくべて.

不器用なわたしでも、この赤い糸を手繰り寄せていけばあなたに届くかしら、なんて.

非日常のはじまりを日常の中から探すように、雑踏の中からあなたの笑顔を探す、今日も.

 

最近携帯電話を買い替えて、まっさらになった文字の予測変換、連絡先、写真フォルダーたち. (相変わらず写真ファイルはアイスクリームまみれですが...)

数少ない友人との"生命線"としての役割をもつこの機械は、わたしに限らず世の中にとって必要不可欠なものになりました.

その機械をまるで自分の分身かのように肌身離さず持ち歩いて、人とつながりたいとき、共有したいとき、その分身から無数に広がるネットワークを介して人とつながるのです.

"きもちの代弁者"であるこの機械があれば、例えば好きな人への愛の告白も、相手を目の前に声にだして、募る想いを手紙にしたためて、そんな"遠回りなこと"はしなくても、今の世の中ならば愛の告白のかかれた文字列を"相手に送信(発信)すること"、そのことに勇気を振り絞りさえすれば、その想い人のかわりに機械が代弁してくれるのです.

 

しかしながらわたしは文字の予測変換は完璧でも、"きもちの予測変換"、(これはあくまでもわたし自身としてはですが)というのは顔をあわせて会話するよりもだいぶ劣る(もしくはまったく異なるもの)と思っています.

Eメールよりチャット、チャットより音声通話、音声通話より対人(もちろん、面と向かって話さないほうがいい場合もありますが...)

すぐに連絡できるから、逆に連絡しづらかったり、音沙汰がないと不安になったり. 機械の向こう側、遠くにいるはずの相手を、あたかもすぐ傍にいるような錯覚を覚えてしまうようで.

 

いつでも連絡はとれるけれど、顔を合わせられる"キカイ"があるならば積極的に会って言葉を交わすべきだなあ、と一方通行のまま終わっている画面をみて考えさせられた三月のはじまりの綴りでした.

17: Lost in Last Page

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重い雲の瞼から伝い落ちた泪の雨で濡れた翌日、吹く風が纏ったのは花のセーター.

十二月は数か月先で目覚めを待つ四月の寝息を、少しだけ、そっと運んできたような日があるかと思えば、草木に霜化粧を施して歩く日もありました.

 

十一月の内にいくつか頭に浮かんだ話たちを書き留めておくつもりだったのですが、書き物に向き合うまとまった時間と準備ができず、さらには十二月の幕が下りようとしている日に、思い立って書き始めてしまいました.

 

祖母の厚切りトーストと甘い卵焼き、わに、コンビニエンスストアで買い求めるフーセンガム、五年以上続けている運動、罪深い十八才の女子高生、セルフジンクスなど...

こうして今書きだしている話たちはほんの一部ながら、ほかの部分はどのような話たちだったか思い出せそうにありませんが、思い出したらぽつぽつと綴っていこうかと思っています. (この辺境の文章たちを読みに来てくれているのは本当にひとり、ふたりだと思いますが)

 

まもなく十二月三十一日という名前の二十四時間が終わろうとしていますので、今日という日が終わる前に、ひとつだけお話しようかと思います.

 

煙突を持っていない家には、サンタクロースさんや赤鼻のトナカイさんはやってこないと小さい頃はそう思っていました.

でも、ひとつだけおとぎ話と知りながら"いつか、もしかしたら"と密かに期待していたのがRaymond Briggs著"The Snowman"のスノーマンでした.

この絵本はわたしの幼少時代を育ててくれた本のひとつといっても過言ではなく、こうして大人になって絵本を開く機会がすくなくなった今も、本だけはずっと持っています.

小さい頃は好きな本なので一ページ目から読み始めるのですが、(読んだことのある方なら二人の過ごした素敵な夜の夜明けがどうなるかご存知やもしれませんが)最後のページをめくるのがつらく、でも怖いもの見たさに最後のページだけを眺めるときもありました.

 

Raymond Briggs著のほかの作品では"Father Christmas (邦題:さむがりやのサンタ)"、"Father Christmas Goes on Holiday (邦題: サンタのたのしいなつやすみ)"、"When The Wind Blows (邦題: 風が吹くとき)"を読んだ、鑑賞したことがありますが、どれもおすすめの作品です. もし書店に立ち寄る予定がある方は、大人だからと遠慮せずに手にとってみてください.

 

と書いたところで、もう次の二十四時間のはじまりの時間になってしまいました.

 

シンデレラにかけられた魔法は解けてしまいましたが、魔法でつくられながらも消えずに王子様と再会をはたすきっかけになった硝子の靴のように、"溶けない魔法"をスノーマンにもかけて...