23: 汝、水鏡に映れば

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6月5日

反芻する形の定まらない考えたちが、雨季へ入る前の狂わせるような汗ばむ陽気と相まって息を苦しくさせています. 突然降ってきた雨に傘をさすのも忘れ...忘れるというよりは持っている折り畳み傘を取り出すのも面倒になってしまって、手持ち無沙汰と一緒に立ち尽くしているような.

 

動き出す前に考えてしまって動けなくなったり、その逆で何も考えずに動き出してしまったり. わたしに今もっとも必要なものは"何も考えないこと"なのかもしれないし、もっと根つめて"何かを考えること"なのかもしれない.

 

作りたいと思って3曲目まで決めたプレイリスト作りがぱたりと止まった3月後半、またプレイリストを作ろうと選曲をしているけれどまだ完成まではあと一歩足らないようです.

 

7月9日

漏れ聞こえてくる泣き声が空から降れば、少しだけわたしも一緒に泣いてやれるのかもしれない.

 

梅雨の季節はあまり好きではないけれど、梅雨から夏へ移る頃に咲く"梔子(くちなし)"の花のかおりが雨音にまじるのはこの季節だからこそ. 暗い夜道に白く映える花はしばらくすると枯れて、静かに消えていってしまうとどれくらいの人が知っているでしょうか.

 

やっと12曲目まで、でも最後の曲までの道のりはまだまだ先は長い.

 

7月31日

夜に飛び出して2年前によく走っていたジョギングコースを走り始めました.

 

走り始めた頃は立ち止まることが多く、ジョギングというよりは歩いている時間の方が長ったような気がしていましたが、発作的に駆けだしたわりには少しだけ持久力がついたのでしょうか...息継ぎのために歩く回数が減り、また走り始めるまでのベンチタイムが短くなっていました.

 

耳元で流れるのは"Holiday's middnight...少し汗ばんだ手のひらが..."

350mlの缶ビールの売っているコンビニには流し目で走り去って、ぐっしょりと濡れた体に幾ばくかの解放感を得て帰路に.

この曲が好きだといっていたあの人もまた夜の街へランニングをしにいっているのだろうか、でもそれはわたしにはわかる由もないのです...

 

8月3日

月からみたら、瞬きもとらえられない花を、限りある空へ散らす.

 

 



22: この森をぬけたら、どうかわたしのことは忘れてください

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もしかしたら、わたしはだいぶ世間一般の枠組みからはずれているところで息をしているのかもしれない. と数年前より肉体的に疲れやすくなった体と相反するような、まだしわのたりない頭の中をみあってそう感じることが多くなりました.

 

街角ですれ違う人々の発する言葉や目まぐるしくかわる表情. その表情と一瞬だけ相まみえるとき、相手の目にわたしはどのような表情で映るのだろうか、目と目がかちあってお互いをとらえたとき、どのような感情が芽生えるのだろうか. たいていの場合は写真のピンぼけのように、風景の一部として何となく通り過ぎていってしまいます.

 

人の行き交う場所にある信号機、青になってもすぐに渡らずにひとりひとりの歩幅や方向は違えど、規則的に動き出す「人波」の隅で立ち止まり、その波へ飲み込まれてみると、自分自身が何者でもないものになるのです.

 

「わたし」と「だれか」との区別がいらない空間へ迷い込むと、「わたし」も「だれか」も「だれでもない」になり、ゆるやかに人とのつながりを曖昧にしてけしてしまいたくなるのです. そうして「わたし」とつながっているものやひとが何事もなかったことにしてしまえばいいと.

 

正直なところ、はじめて「どうにでもなればいい」と思ってしまったのです.

書きたいから削り始めたはずの鉛筆、気づけば必要以上に細くなった芯が、きもちを文字にする前にぽきり、と折れてしまったような. 

 

そうしたら、わたしはだいぶ世間一般の線引きからはずれているところでひとりになりたがっているかもしれない. と.

21: 76173

f:id:zio_ep:20170625173751j:plainわたしにとって久しぶりの"学校"ともいえる教習所. 運転免許証を手にした今こそ二か月弱と言葉にしてみればとても短いもので、幾ばくかさみしいきもちもあるというのがホンネです. "教習所物語"をここで綴ろうとも思ったのですが、あえてその物語を語ったあとのあとがきだけを少し、書き留めておくだけにしようと思います.

 

まず、とにもかくにも、とても人との縁と機会に恵まれたなあ.ということです. わたしにとってはじめての免許取得、右も左も(教習所で例えるならば右折も左折も)わからない人間が原動力のついた鉄の塊を限られた本数の手足で動かそうとするわけですから、特に技能では二段回目へと落ち着くまで(もちろん二段回目でもへっぽこだったわけですが...)教官の"檄"が飛んでわたしの左胸を何度も貫いていきました.

それでもめげずに教習所へと足を運んだのは、真剣に教えてくれる教官にできなかったことができるようになった姿をみせたい.という一心が強かったからだと思います. 飛ぶ姿をみせる親鳥に必死に食らいつく雛鳥、とでもいいましょうか. 指導してくださった教官にとっては何万人目の教習生かもしれませんが、巣立った今も感謝しきれないくらいです.

 

また、これは教習所に限ったことではありませんが、できなかったことができるようになってくると周囲がよくみえてくる場面が多々あります. 教習所を通い始めたばかりだろう教習生の技能の風景をみていると、うまく飛べなかった頃の自分自身を客観的にみている、そんな感覚を覚えます. 特にわたしの場合は他の教習生よりも技能で苦労したので、なおさらかもしれません. 教習コースから聴こえる教官の檄. 気づくと教習生の後ろ姿を"がんばれ、負けるな"と見守っていることも少なくありませんでした. きっと彼らも必ず卒業証書を受け取り、免許を手にとる日が...卒業生になったわたしのように"終わってしまってさみしい"と感慨にふける日が、と.

 

はじまりには終わりがあり、終わりにははじまりがあります.

わたしの教習所物語は一度ピリオドを打ったわけですが、これからは安全運転、無事故無違反を心がけ、運転免許証という翼を広げてまだ見ぬ空へとんでいけたらと思います.