06: 朝顔の花のうへの露

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"いつもそこにある風景"というのは、写真の中だけの話なのでしょうか.

 

同じ窓からみる風景でも、その日の天気や風の入り方、気分でまったく違う顔をみせます.

誰しもが"思い出の場所"だとか"いつもの景色"といった一枚絵を、胸の内に飾っていると思います. もちろんわたしもそのひとりです.

こうして社会人になった今でも、今は知らない人が住んでいるであろう生家や、母に連れられて遊んだ公園、特別な日だけ暖簾をくぐれたお寿司屋さんと中華屋さんなどを訪れて、心の内の記憶の風景と目の前に広がる現在の風景を比べて、その変化を確認しに出かけることがあります.

 

もう一昨年の話になるでしょうか.

小さい頃から中華そば屋さんといえばここ、しょうゆ味のらあめんといえばここ、にらいっぱいの餃子といえばここ、季節を問わず味の変わらないおいしい中華料理をふるまってくれるお店のあった風景がかわったのです.

十字路の一角にあった中華そば屋さんは、別のお店の名前の看板が掲げられ、まるでまぼろしだったかのように消えてしまいました.

(実はつい最近でも、よく食べに行っていた日本そば屋さんがあった街の一角も、シャッターがおろされお昼時にあった人の活気もなくなってしまいました)

道行く人には"あの人はなぜやきとり屋さんの前で呆然とたっているんだろう"と思われたに違いありません. でも、それだけわたしにとっては大きな出来事だったのです.

 

もしかすると、わたしは"思い出の風景"を通して"わたし自身"と対話しているのかもしれません.

もちろんわたしの記憶からその中華そば屋さんが色褪せることはありませんが、目の前の風景からわたし自身を思い出す場所、きっかけを見失うことのように思われて、とてもかなしく感じられるのです.

 

"諸行無常"、普遍的なものはないのだと、気づかされるのでした.

"いつもある"が"いつもない"になる前に、どうか"ここにある"ことを確認してみてくださいね.