18: み・む・ふ・ひ

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未完成のまま書くのをやめてしまったラヴレターたち.

無関心なふりをしているけれど、こころの片隅で気づかれないようハアトに火をくべて.

不器用なわたしでも、この赤い糸を手繰り寄せていけばあなたに届くかしら、なんて.

非日常のはじまりを日常の中から探すように、雑踏の中からあなたの笑顔を探す、今日も.

 

最近携帯電話を買い替えて、まっさらになった文字の予測変換、連絡先、写真フォルダーたち. (相変わらず写真ファイルはアイスクリームまみれですが...)

数少ない友人との"生命線"としての役割をもつこの機械は、わたしに限らず世の中にとって必要不可欠なものになりました.

その機械をまるで自分の分身かのように肌身離さず持ち歩いて、人とつながりたいとき、共有したいとき、その分身から無数に広がるネットワークを介して人とつながるのです.

"きもちの代弁者"であるこの機械があれば、例えば好きな人への愛の告白も、相手を目の前に声にだして、募る想いを手紙にしたためて、そんな"遠回りなこと"はしなくても、今の世の中ならば愛の告白のかかれた文字列を"相手に送信(発信)すること"、そのことに勇気を振り絞りさえすれば、その想い人のかわりに機械が代弁してくれるのです.

 

しかしながらわたしは文字の予測変換は完璧でも、"きもちの予測変換"、(これはあくまでもわたし自身としてはですが)というのは顔をあわせて会話するよりもだいぶ劣る(もしくはまったく異なるもの)と思っています.

Eメールよりチャット、チャットより音声通話、音声通話より対人(もちろん、面と向かって話さないほうがいい場合もありますが...)

すぐに連絡できるから、逆に連絡しづらかったり、音沙汰がないと不安になったり. 機械の向こう側、遠くにいるはずの相手を、あたかもすぐ傍にいるような錯覚を覚えてしまうようで.

 

いつでも連絡はとれるけれど、顔を合わせられる"キカイ"があるならば積極的に会って言葉を交わすべきだなあ、と一方通行のまま終わっている画面をみて考えさせられた三月のはじまりの綴りでした.