19: Catch me if you can.

f:id:zio_ep:20170319025558j:plain

去年の暮くらいからでしょうか、いや、もしかするともっと前からかもその気配を感じていたのかもしれません.

集団の中にいるときのわたしと、ひとりでいるときのわたし、同一人物でありながら"不同一人物"ではないか、と.

 

これは俗にいう二重人格だとか、猫かぶり、ということではなくて(言葉で説明するのが苦手なわたしには少し難しいのですが)、ひとりでいるときは構えずにほどよく力を抜くことができるのに、集団の中(複数人でいるとき)だとまるでポーカーをしているような"あの人の手の内はどうなんだろう"などと見えない相手の"こころの手札"を、微細な顔の表情や深読みをしてしまうようです. そしてたちの悪いのは大抵その状況に陥って深読みがひとり歩きしていった場合、ゲームの進行を阻害することになり、集団からの印象を悪くしてしまうのです. 本当にみるべきはずの自らの手札と目の前で進行していく場の雰囲気をおろそかにして、気づいたら身動きができなくなってしまうことがしばしば.

 

取り組むならばいい加減なきもちではできない.

目の前にある数多くの選択肢からどれが最善なのか.

限られた時間で限りない何かを得るには.

 

良くも悪くもわたし自身にとって、相手にとっての心地の良い妥協点をなかなか見出すことができないで、そこで相手から"どのカードを手札をだしてもいい"なんていわれようものなら、相手にとってこのゲームは"その程度のものだ"といわれたような気がして、ゲームにも相手のきもちにも焦点が合わせられなくなっていくのです.

 

周りとのみえない壁があって、その線引きをしているのは相手ではなくきっとわたし自身なのでしょう. でもそれをなかなか打ち壊せないわたしは、また一歩二歩とその壁から後ろへ後ろへと歩いていき、逃げた背中が行きつくのは"またやってしまった"という後悔と自責の壁というわけです...

 

"とらえられない"と思っているのは相手との距離感や空気ではなく、わたし自身の在り方なのかもしれません.

小瓶に"とらえられた"月ははたして、夜が明けてもそこに在るのでしょうか.