12: Dagli Appennini alle Ande
家つむりだったわたしが、気づけば海辺に誘われ、次の家を探しながらやどかりになっていた. まだ見ぬ"ナニカ"を探して、歩くようになった、そんなお話.
"お休みの日は何をしているのか"というありきたりな問いに答えるとして、おそらく三年前のわたしは"家で映画を鑑賞する"だとか"書籍を読む"といった、これまたありきたりな答えを返していたと思います.
いつを境にかたつむりがやどかりになったのか、というのは当の本人でもおぼろげなのですが、新しい靴を買うと出歩きたくなるような、そんな単純なきっかけであったと思います.
ある五月の暑い日、電車で一時間とかからない目的地へ電車ではなく徒歩でいってしまえと、歩き始めました. 途中で渡った大きく長い橋にも、高層ビルの間に静かに流れる細道にも、人影はあらず、絶え間なく歩き続けるわたしの影だけがありました.
たまに対岸からやってくる人が見えると、ふと"向かい側から歩いてくる人はわたしが何十キロと離れた場所から、まさかここまで徒歩でやってきたことなんて知り得ないだろう."という考えが浮かんで消えました.
ただ歩いているだけなのに、その距離がとんでもなく長くなると、そこに非日常的な感覚が生まれ、そして(これはわたしの場合だけかもしれませんが)ひたすらに歩くことに頭の隅を満たすと、写真を写すことに没頭できること、そしてその行為への一種の"心地よさ"を見出したわけです.
長い時間と距離を費やして、非効率的な過ごし方をするなんて...と思われても仕方がありません.
でも、その一歩を踏み出したら、どこまででも歩いていけそうになるのです.
足を休めるのはカメラを構えるときだけ.
もしかしたらわたしは、まだ見ぬ"セツナ"という生き物を捕まえようとしているのかもしれません. それをこのカメラに捕まえるまではきっと、歩いていくのだと思います.
(こう綴ってみると、まるでマサラタウン生まれの彼のように思えたのはここだけのひみつです)