20: 後ろから三番目の背中

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少し肌寒い体育館に響き渡る校長先生のおはなし、大半の生徒はもう目の前にある春休みに心奪われうわの空で、目の前の友達の少し浮ついた背中をぼうっと視界に収めながら聞き流されていくことでしょう.

 

わたしは身長が幼い頃から高いほうだったので、背の順のまえならえならばたいていの場合、後ろから三番目でした.

だから校長先生に最も近い"まえならえ"の先頭の友達に少しばかり、同情のようなものを感じたことがあります. あんな長くて頭にも耳にも入ってこない(といったら校長先生に失礼ですが...)話を、態度だけでも聞くことに徹しているように装う必要がありそうだったからです.

"不良学生"のわたしは列の後ろであることをいいことに、話半分、校庭につながる体育館の扉から垣間見える春は桜散る風景、夏は少し湿った風が砂をさらう様子などをよくみていたものです.

 

わたしはこうして大人になるまでに、いろいろな人のいろいろな"背中"を受け止めてきたように思います.

自由奔放な姉の背中をみながら、泣き虫な弟の泣きじゃくる声を背中で聞いて、ふと見上げると安心する台所に立ってせわしなく動く母のエプロン姿、そして仕事で家を留守にすることが多かった父がたまに帰ってきてパソコンに向かう真夜中の後ろ姿など.

表情筋ではなく背筋のついた背中だけでも、十分に相手のきもちは語られるものです.

 

今こそ電車の乗り方、歩き方を覚えた大人のわたし. 誰かに手をひかれて歩いたり、自転車の後ろの子供用の椅子に座ってでかけることはなくなりましたが、街中でお母さんの漕ぐ自転車の後ろを必死に小さな自転車でついていく家族の背中をみると、そこに昔のわたし自身を思い出すことが多々あります.

 

自分の自転車を買ってもらう前は母の運転する自転車に、補助輪が外れてひとりで乗れるようになると、どこにいくにも母の背中を追って自転車を漕いだものです.

 

もう明後日、明日には四月になり、真新しい制服、スーツに包まれた、またひとつ"大人になった"背中が街に溢れる頃です.

"他人の袖みて..."ではなく"他人の背をみて我が生(せい)なおせ"で、精進していこうとおもいます.

19: Catch me if you can.

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去年の暮くらいからでしょうか、いや、もしかするともっと前からかもその気配を感じていたのかもしれません.

集団の中にいるときのわたしと、ひとりでいるときのわたし、同一人物でありながら"不同一人物"ではないか、と.

 

これは俗にいう二重人格だとか、猫かぶり、ということではなくて(言葉で説明するのが苦手なわたしには少し難しいのですが)、ひとりでいるときは構えずにほどよく力を抜くことができるのに、集団の中(複数人でいるとき)だとまるでポーカーをしているような"あの人の手の内はどうなんだろう"などと見えない相手の"こころの手札"を、微細な顔の表情や深読みをしてしまうようです. そしてたちの悪いのは大抵その状況に陥って深読みがひとり歩きしていった場合、ゲームの進行を阻害することになり、集団からの印象を悪くしてしまうのです. 本当にみるべきはずの自らの手札と目の前で進行していく場の雰囲気をおろそかにして、気づいたら身動きができなくなってしまうことがしばしば.

 

取り組むならばいい加減なきもちではできない.

目の前にある数多くの選択肢からどれが最善なのか.

限られた時間で限りない何かを得るには.

 

良くも悪くもわたし自身にとって、相手にとっての心地の良い妥協点をなかなか見出すことができないで、そこで相手から"どのカードを手札をだしてもいい"なんていわれようものなら、相手にとってこのゲームは"その程度のものだ"といわれたような気がして、ゲームにも相手のきもちにも焦点が合わせられなくなっていくのです.

 

周りとのみえない壁があって、その線引きをしているのは相手ではなくきっとわたし自身なのでしょう. でもそれをなかなか打ち壊せないわたしは、また一歩二歩とその壁から後ろへ後ろへと歩いていき、逃げた背中が行きつくのは"またやってしまった"という後悔と自責の壁というわけです...

 

"とらえられない"と思っているのは相手との距離感や空気ではなく、わたし自身の在り方なのかもしれません.

小瓶に"とらえられた"月ははたして、夜が明けてもそこに在るのでしょうか.

 

18: み・む・ふ・ひ

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未完成のまま書くのをやめてしまったラヴレターたち.

無関心なふりをしているけれど、こころの片隅で気づかれないようハアトに火をくべて.

不器用なわたしでも、この赤い糸を手繰り寄せていけばあなたに届くかしら、なんて.

非日常のはじまりを日常の中から探すように、雑踏の中からあなたの笑顔を探す、今日も.

 

最近携帯電話を買い替えて、まっさらになった文字の予測変換、連絡先、写真フォルダーたち. (相変わらず写真ファイルはアイスクリームまみれですが...)

数少ない友人との"生命線"としての役割をもつこの機械は、わたしに限らず世の中にとって必要不可欠なものになりました.

その機械をまるで自分の分身かのように肌身離さず持ち歩いて、人とつながりたいとき、共有したいとき、その分身から無数に広がるネットワークを介して人とつながるのです.

"きもちの代弁者"であるこの機械があれば、例えば好きな人への愛の告白も、相手を目の前に声にだして、募る想いを手紙にしたためて、そんな"遠回りなこと"はしなくても、今の世の中ならば愛の告白のかかれた文字列を"相手に送信(発信)すること"、そのことに勇気を振り絞りさえすれば、その想い人のかわりに機械が代弁してくれるのです.

 

しかしながらわたしは文字の予測変換は完璧でも、"きもちの予測変換"、(これはあくまでもわたし自身としてはですが)というのは顔をあわせて会話するよりもだいぶ劣る(もしくはまったく異なるもの)と思っています.

Eメールよりチャット、チャットより音声通話、音声通話より対人(もちろん、面と向かって話さないほうがいい場合もありますが...)

すぐに連絡できるから、逆に連絡しづらかったり、音沙汰がないと不安になったり. 機械の向こう側、遠くにいるはずの相手を、あたかもすぐ傍にいるような錯覚を覚えてしまうようで.

 

いつでも連絡はとれるけれど、顔を合わせられる"キカイ"があるならば積極的に会って言葉を交わすべきだなあ、と一方通行のまま終わっている画面をみて考えさせられた三月のはじまりの綴りでした.