24: 梅の花は零れて

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わたしは大きなくくりの中でいうとサービス業に従事しています.
どの職業に従事していても人間関係というものはつきもので、人と人が一つの会社という屋根の下で生活をしているわけですから、喜びあれば悲しみや怒りも常にあるものです.

 

"会社のため"と働きますが、たまに"会社のため?"と思うようなことも当然あります.

冬のからりと乾いた空の眩しい笑顔をみると、硬い地中にもぐり続けて暗がりに向き合う毎日(実際に言えば明るい画面をみる毎日)ばかりで、いざ土から出て空を仰いだら眩しすぎる空に目を細めるしかなくなってしまうのではないか、と思ってしまいます.

「サーカス団長とライオン」「トレーナーとイルカ」と聴いて、もし弟子入りするならば...どちらも指導する側とされる側の名前が羅列されているだけなのですが、なんだかサーカス団長はいじわるで怖いイメージがわいてしまうのはわたしだけでしょうか.

 

"人を笑顔にする仕事"はやりがいがあるはずなのですが、働く環境がそれをすこしばかり難しくさせている. 少し前まで、わたしがその状態にありました.

 

でも、綺麗事をいっても野口英世樋口一葉、ましてや福沢諭吉の書いてある紙は働かなければ手にすることはできません.

同僚の無慈悲な一言に胸を撃ち抜かれても、いつかの同僚が助けれくれた恩を思い出しては包帯を巻いて... 上司の理不尽な指示に顔がしかめっ面になっても、部下から頼られれば芽を伸ばせるように応援をして(まるで自分を応援するかのように)...

 

会社という屋根の下で息苦しくなったら、この家の扉を開けて歩き出してみればいいのだ.とようやく最近思えるようになってきたのは、わたしよりも困難な状況下で地中をもぐりながらも、そのような最中ですら、わたしを気にかけてくれた友人の背中をみたこと. 街でささいなきっかけから言葉を交わし、その人の歩いてきた過去の一ページを話して下さった方の言葉からの気づきなど...

 

明日も「また仕事か~」といいながら出勤するでしょう.

でも以前よりは窓越しの冬空を目に映せるようになった、そんな気がしています.

23: 汝、水鏡に映れば

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6月5日

反芻する形の定まらない考えたちが、雨季へ入る前の狂わせるような汗ばむ陽気と相まって息を苦しくさせています. 突然降ってきた雨に傘をさすのも忘れ...忘れるというよりは持っている折り畳み傘を取り出すのも面倒になってしまって、手持ち無沙汰と一緒に立ち尽くしているような.

 

動き出す前に考えてしまって動けなくなったり、その逆で何も考えずに動き出してしまったり. わたしに今もっとも必要なものは"何も考えないこと"なのかもしれないし、もっと根つめて"何かを考えること"なのかもしれない.

 

作りたいと思って3曲目まで決めたプレイリスト作りがぱたりと止まった3月後半、またプレイリストを作ろうと選曲をしているけれどまだ完成まではあと一歩足らないようです.

 

7月9日

漏れ聞こえてくる泣き声が空から降れば、少しだけわたしも一緒に泣いてやれるのかもしれない.

 

梅雨の季節はあまり好きではないけれど、梅雨から夏へ移る頃に咲く"梔子(くちなし)"の花のかおりが雨音にまじるのはこの季節だからこそ. 暗い夜道に白く映える花はしばらくすると枯れて、静かに消えていってしまうとどれくらいの人が知っているでしょうか.

 

やっと12曲目まで、でも最後の曲までの道のりはまだまだ先は長い.

 

7月31日

夜に飛び出して2年前によく走っていたジョギングコースを走り始めました.

 

走り始めた頃は立ち止まることが多く、ジョギングというよりは歩いている時間の方が長ったような気がしていましたが、発作的に駆けだしたわりには少しだけ持久力がついたのでしょうか...息継ぎのために歩く回数が減り、また走り始めるまでのベンチタイムが短くなっていました.

 

耳元で流れるのは"Holiday's middnight...少し汗ばんだ手のひらが..."

350mlの缶ビールの売っているコンビニには流し目で走り去って、ぐっしょりと濡れた体に幾ばくかの解放感を得て帰路に.

この曲が好きだといっていたあの人もまた夜の街へランニングをしにいっているのだろうか、でもそれはわたしにはわかる由もないのです...

 

8月3日

月からみたら、瞬きもとらえられない花を、限りある空へ散らす.

 

 



22: この森をぬけたら、どうかわたしのことは忘れてください

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もしかしたら、わたしはだいぶ世間一般の枠組みからはずれているところで息をしているのかもしれない. と数年前より肉体的に疲れやすくなった体と相反するような、まだしわのたりない頭の中をみあってそう感じることが多くなりました.

 

街角ですれ違う人々の発する言葉や目まぐるしくかわる表情. その表情と一瞬だけ相まみえるとき、相手の目にわたしはどのような表情で映るのだろうか、目と目がかちあってお互いをとらえたとき、どのような感情が芽生えるのだろうか. たいていの場合は写真のピンぼけのように、風景の一部として何となく通り過ぎていってしまいます.

 

人の行き交う場所にある信号機、青になってもすぐに渡らずにひとりひとりの歩幅や方向は違えど、規則的に動き出す「人波」の隅で立ち止まり、その波へ飲み込まれてみると、自分自身が何者でもないものになるのです.

 

「わたし」と「だれか」との区別がいらない空間へ迷い込むと、「わたし」も「だれか」も「だれでもない」になり、ゆるやかに人とのつながりを曖昧にしてけしてしまいたくなるのです. そうして「わたし」とつながっているものやひとが何事もなかったことにしてしまえばいいと.

 

正直なところ、はじめて「どうにでもなればいい」と思ってしまったのです.

書きたいから削り始めたはずの鉛筆、気づけば必要以上に細くなった芯が、きもちを文字にする前にぽきり、と折れてしまったような. 

 

そうしたら、わたしはだいぶ世間一般の線引きからはずれているところでひとりになりたがっているかもしれない. と.