14: おむすびとはちまき

手縫いの赤色はちまき、白と青の体操着と上履きには大きく名前がかかれ、赤いランドセルのかわりに背中にしょったのは臙脂色のリュックサック. 自分の顔と同じくらいの大きさの水筒をもって歩く、いつもと変わらない通学路は、どこか違ってみえた朝.

 

開会式、100m走、むかで競争、水筒の麦茶が半分になろうとするお昼頃. 生徒席に並んで座っていた友達に短い別れを告げて、家族たちの顔がそろうレジャーシートへ向かうのでした.

 

たこさんウインナー、甘いたまご焼き、トマトとアスパラのベーコン巻き、そして銀紙につつまれたおむすび.

家を出るときにみた台所の母の横顔、その手には酸っぱい梅干しと炊き立てのご飯、母の手のひらには手際よく握られていくおむすびたちがいました.

銀紙を広げ、わたしたちがおむすびを頬張る頃には、のりがしんなりとして梅と少し振り塩されたご飯と、疲れを飛ばす梅干しの酸っぱさが口に広がるのです. わたしはこの梅のおむすびが大好きで、運動会や学芸会などの行事のときに、母が握ってくれるのをひそかに楽しみにしていたほどです.

 

食欲の秋、運動の秋、わたしの好きな季節がやってきました.

夏と冬の間の短い季節、どうかおいしく楽しく過ごしたいものです.

13: 水-面-鏡

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雨上がりのアスファルトの上に残された水たまりに、真っ青な空が映し出される矛盾の美しさ.というとこそばゆく思えて、でも、その水面を揺らずに歩くと、本当にそこからどこか別の世界へ繋がっているんじゃないかと思えるほど、ありのままを映し出してくれます.

 

その時々にこころに浮かんだことは、忘れないように(たまに書き記して残すこと自体を忘れてしまうのがいたいところですが)メモに走り書きしておいたり、所持品と結び付けて思い出せるようにしてまた引き出しから取り出せるようにしています.

 

うまく言葉にここで書き起こすことができるのかはわかりませんが、どこかの橋の上で川の水面に映る白い大きな建物を眺めていた時(わたしが建物の形をみるのが、重機をみるのと同じくらいすきだという話はまた別の機会にするとして...)、晴れ間の間から弱い雨が降り始めました.

弱い雨ならば...と空に向けた目を建物に戻すと、ふと、水面に映された白い建物が雨に揺らされているのが目に入りました.

 

確かにそこに存在する白い建物が、水面の中では小さな波紋に打ち消されて曖昧になっている.

水面、水鏡、と浮かんで鏡面という言葉がよぎり、その二つの似た言葉の共通点をぽつりぽつりと思案し始めました.

 

揺らぐことのない鏡面、割れない限りありのままを映し出してくれます.

鏡面に映しだされた"ありのまま"に触れても水面のよう揺らぐことはありませんが、そこに触れた体温までは再現することはできませんし、ありのままを映し出す範囲にはどうしても限りがあります.

水鏡も、鏡面も、実体にはなり得ず、いずれも一度何らかの衝撃が加われば元に戻るまでには時間を要します.

 

そんなまとまらない考えを頭に溢れさせながら、雨足が強まる中ふと足を止めて、足元の水たまりをのぞきこんで、まるでざわついた胸の内をそのまま映し出したかのような、雨の跳ねる目下の水面に向かってシャッターを切りました.

 

(やはりあまりうまく言葉にできていないのですが...)

実体が動かなければ、水面のわたしも鏡面のわたしも動くことはありません.

しかしながら、人のこころの闇やこころをよく人影で表すように、水面も鏡面もそれと同様なのではないか.と思うのです.

実体に衝撃を与えられていなくても、それを映す水面に一葉が落ちてさざ波を与えたら、表向き(ここでは実体を指しますが)には何ら影響はないように見えますが、水面(ここではこころの内を指します)は必ずその形を崩すことになります.

 

誰かに胸にズキンと突き刺さるような冷風を吹かれたら、穏やかな水面は荒れてしまうことでしょう.

冷風でなくとも、たった一言、たった一葉だとしてもそれは同じです.

 

失念してしまいましたが、仏教の教えの中に"自然の中に学び、教えがある"というものがあり、この"水面と鏡面"をメモした雨の日はまさにその学びだと感じました.

 

... とここまで書いてきましたが、何を言いたいかというと、誰かの水面に"一葉を落とす"ことは、相手の面(つら)が平気そうに見えても、それ以上に相手には大きな出来事になり得る.ということだなあ、と雨の日は考えさせられる機会が多いというお話でした.

12: Dagli Appennini alle Ande

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家つむりだったわたしが、気づけば海辺に誘われ、次の家を探しながらやどかりになっていた. まだ見ぬ"ナニカ"を探して、歩くようになった、そんなお話.

 

"お休みの日は何をしているのか"というありきたりな問いに答えるとして、おそらく三年前のわたしは"家で映画を鑑賞する"だとか"書籍を読む"といった、これまたありきたりな答えを返していたと思います.

いつを境にかたつむりがやどかりになったのか、というのは当の本人でもおぼろげなのですが、新しい靴を買うと出歩きたくなるような、そんな単純なきっかけであったと思います.

 

ある五月の暑い日、電車で一時間とかからない目的地へ電車ではなく徒歩でいってしまえと、歩き始めました. 途中で渡った大きく長い橋にも、高層ビルの間に静かに流れる細道にも、人影はあらず、絶え間なく歩き続けるわたしの影だけがありました.

 

たまに対岸からやってくる人が見えると、ふと"向かい側から歩いてくる人はわたしが何十キロと離れた場所から、まさかここまで徒歩でやってきたことなんて知り得ないだろう."という考えが浮かんで消えました.

 

ただ歩いているだけなのに、その距離がとんでもなく長くなると、そこに非日常的な感覚が生まれ、そして(これはわたしの場合だけかもしれませんが)ひたすらに歩くことに頭の隅を満たすと、写真を写すことに没頭できること、そしてその行為への一種の"心地よさ"を見出したわけです.

 

長い時間と距離を費やして、非効率的な過ごし方をするなんて...と思われても仕方がありません.

でも、その一歩を踏み出したら、どこまででも歩いていけそうになるのです.

 

足を休めるのはカメラを構えるときだけ.

もしかしたらわたしは、まだ見ぬ"セツナ"という生き物を捕まえようとしているのかもしれません. それをこのカメラに捕まえるまではきっと、歩いていくのだと思います.

 

(こう綴ってみると、まるでマサラタウン生まれの彼のように思えたのはここだけのひみつです)